母親が子供への愛情を疑ってしまう時があるのはなぜだろう?

男性と違い、女性は子どもをお腹に十月十日かかえる。そして泣き叫びながら、やっと生まれてくれた子ども。

生まれる前はあんなに楽しみだったのに、いざその腕に抱えてみると、「自分は無条件の愛情をこの子に抱けていないのでは?」と不安になる。

思わず怒鳴ってしまった、些細な言動が感に触る、虐待してしまったらどうしよう。

いろんな想いはあるけれど、不安と焦燥感ばかりが強く、「子どもに愛情を持つのが当たり前」という社会の中では気軽に相談さえできない。

もしそういう方がいらっしゃるなら、ぜひ最後まで読んでみてください。

生物的メカニズムで赤ちゃんは愛してもらおうとするし、母親は子どもを守ろうとします。それがうまくいかないということは、「おかしい」のではなく、今あなたが「辛い状況にある」という自覚が必要です。

あなたの辛さはいつか子どもの辛さになってしまいます。

向き合うことは恐ろしく思えるかもしれませんが、自分を知ることは安心の第一歩となります。

子どもをうまく愛せないと感じてしまう母親の状況って?

そもそも愛するってどういう状態でしょうか。結婚していたら愛しています? 出産したら愛していることを前提にしていますか?

抱き締めたり、キスをしたり、寄り添っていたら愛していることになりますか?

「愛しているってこういうのを思い浮かべて行っているけれど、どこか空虚な心持ち」になっているならば、少し危険です。これは決して「愛する」行為ではありません。

世の中にいろんな家族の形があり、複雑に絡み合った感情を家族に向けているのです。

ですから「自分が愛せていない」と感じるのは、メディアや経験などから受ける究極の「理想」とのギャップがあるからかもしれません。

理想像って常にdoing(したこと)がありませんか。人間ですから、doingで失敗してしまうことがあります。

母親としての完璧を支えるdoingでミスをしてしまうと、自分は母親失格なのでは?と恐怖に駆られてしまいます。それはあなたもあなたの周りもdoingしか評価していないからです。

兄妹が何人いたとしても、その子にとってみれば、「私の母親○年」です。つまり、母親として完璧だったり、熟練の域に達することはなかなかないでしょう。

母親になると、あなたのアイデンティティ、根幹となるものは母親としての立場と錯覚してしまいがちですが、あなたは母親である前に、一人の女性で、一人の人間

どうも日本では役割が重視され、個が蔑ろにされる傾向にありますが、あなたが自分のいることの意味、いるという事実、こういう自分であること(being)を受け入れてあげないと、他者を愛することはとても難しいでしょう。自分のbeingが何かしらの形で傷ついている時、他者を引き受けるゆとりはないのです。

ありきたりな話ですが、あなたが何をしようと、どこの誰であろうと、あなたは誰に比べるまでもなく、いてくれるだけで素晴らしいと自負してください。

ありきたりですが、自分が自分を一番に愛してあげてください。

母親ではなく、人として愛せるように。 

「自分のことを愛せるほど、ちゃんと愛されてきたかわからない」

「自分を愛せないのに、子どもとこの先生きていけるんだろうか。幸せにできるんだろうか」

「子供のために自分を犠牲にすることが納得いかない」

きっと私たちは愛に対してなんとも崇高なイメージを抱いていると思いませんか。

しかし、かのエーリッヒフロムは愛することは技術と言っています。

ですから安心してください。愛された経験をしたからといって、必ず誰もが愛せるわけでもない。

愛するためには練習が入ります。

今から少しずつ練習していきませんか。子どもが産まれた時点で精一杯かもしれません。それでも、愛する練習はあなた自身も愛する練習になります。

受け身の存在から愛する練習を

ところで皆さんは生き物を育てたことはありますか? ペットでもいいですが、お野菜や観葉植物は?

私たちは自身との孤独から脱却するために愛し、愛され、社会を形成します。愛するという主体的な行為が全ての始まり。

つまり愛することは生きるために必要な行為だったわけですが、物質的に豊かで個人主義が当たり前になった社会では、「自分から見返りなくする」というのはなかなか……

そこで、愛する練習をするために「植物を育ててみる」というのはどうでしょうか。

わたしはたまたま頂いたパキラを育てることがきっかけでしたが、木は何も語りません。ただあるだけで、わたしがひたすら水を与え、鉢を植え替え、すくすくと成長するだけです。

実もなりませんから、生産性ゼロ。なんの目的もなく育てていました。

それでも萎れていたら気にしますし、改善しようと手を尽くしたり。意外と手がかかるんです。そんなことをしているとふと感じたのが「愛」でした。

瑞々しく葉を茂らせてくれるだけで美しいと、嬉しいと、そう感じるようになりました。

反応がないから、多分わたしはこのように感じたんだと思います。

相手が能動的で選択する能力がなるならば、きっと初めは「こんなに世話をしてあげているに、どうしてなつかないの?」とか「泣き止んでくれないの?」とイライラしていたともいます。

ただ生きてくれるだけで愛おしいと、美しいと、そう思えるようになったのは植物を育てた経験があるからだと思います。

これはもちろん練習ですし、植物と人間なんて勝手が違いすぎますが、それでも「あぁ、わたしって何かを愛しんだり、愛することができたんだ」と安心したことをよく覚えています。

今は百均でも観葉植物が買える時代。水やりだって習慣になれば手間ではありません。植物のお世話をおろそかにしているとき、自分の心が置き去りになっているバロメーターになったりもします。

そもそも自分がちゃんと愛せるのか?と思った時、一つの練習として初めてみてはいかがでしょうか。

ワンオペにならず、社会とつながる

昨今痛ましい虐待事件は絶えず、むしろ年々精神的虐待は増加しています。家庭という密室空間はあらゆる暴力行為をエスカレートさせます。

そして虐待をしてしまう人の多くは、過去にトラウマ的体験を抱えていたり、自分の許容範囲を超えてしまったが故に、自分より弱い人間を吐口にしてしまいます。

前節でも述べましたが、私たちは人を愛し、愛されて社会を形成する生き物です。オンラインや様々なもので繋がっているような気になりがちですが、実は私たちが考えている以上に希薄な関係なのです。

オンラインのつながりが悪いわけではありません。時間や場所を越境し、素晴らしい人と繋がれる一方で、抱え込んでいる問題に対しては、目の前でリアルに解決策を示してもらわないとなかなか処理できないのです。

オンラインで色々調べても、なかなか実践しませんが、実際にあったり体験したりするけんけんは私たちに絶大な効果をもたらします。

ですから、よりリアルに他者を感じる古きよる繋がり方を探してみてもいいかもしれません。聞き役の電話相手だったり、地域のコミュニティだったり。

母子の居場所が着実に追いやられてしますが、同時に母子のための居場所づくりも進んでいます。

ちなみにわたしがお世話になったのは、文通でした。自分の伝えたいことを整理できますし、お返事は時間をかけて書かれた誰かの文字。とても暖かな気持ちにさせてもらっています。

人間関係はいつだって悩ましいものですが、他人に過度な期待をせずに、慈しみの気持ちをもとうと意識してみてください。

最優先は自分と子どもですから、辛い時は物理的距離を取りましょう。現代人は物理的距離が開くと心理的距離も開きやすいのです。

まとめ

本稿のまとめは以下の通り

  1. 愛せないと感じるのは、あなたにその余裕がないから
  2. 理想像よりも、いることの価値を認めてあげて
  3. 無償の愛は練習を
  4. 期待しないからこそ慈しみを
  5. 誰かと繋がれる社会は希薄になりがち、リアルな繋がりを

残念ながら世の中にはいろんな家族がいて、傷ついている子どももいれば、傷ついてることに気づけていない親がいます。

「もしかしたら私は……」と思っても、どうか絶望しないでください。

今は多くの人がカウンセラーに通うことを躊躇しない時代になりました。

現代の人は「一度傷がついて仕舞えば修復不可能」とどこか脅迫的妄信に駆られているところがあると指摘されています。

自分の見つめ方を知らず、子どもの見つめ方を、愛し方を知らないならば、学んでいけばいいのですから!