世の中にはいろんな人がいるけれど、誰から見てもとても、魅力的な人っていますよね。
「人当たりが良い」
「笑顔が素敵」
「自信がみなぎっている」
「自己肯定感が高い」
きっと愛されて育ったんだろうなぁという人たちですが、そういう人たちは成長期で愛された経験を十分に積んだという傾向があります。
でも愛されるってどういうことでしょう?皆さんも愛し愛され方がイメージつくのに、どこか現実味が欠けているのではないでしょうか。
愛し方もそれぞれ。愛され方も様々。
惜しみなく時間を費やしてあげる人もいれば、求めるだけ愛情を返そうとする人、あるいは厳しく接することで愛情表現をする人もいます。
しかしどんな愛し方でも程度がありますし、何よりその愛が伝わらなければ拗れてしまうのはいうまでもありません。
自分の子どもが「自分は愛されて育った」と胸を張っていってくれるように、そんな愛し方を一緒に考えてみませんか?
愛し方はそれぞれ!人の育ちで特徴は変化する。
愛されて育った人は愛されていることを知っている……というと、なんだか「哲学ですか?」と聞き返したくなるかもしれませんが、そんな小難しいことではありませんのでご安心ください。
もう少し丁寧にいうと、「愛されて育った人は、自分が愛情だと理解した表現で、愛されてきた」ということ。
ちょっとイメージはできましたか?
皆さんもご存知、夏目漱石のI LOVE YOUは「月が綺麗ですね」というもの。
これって、今でこそ有名なので混乱するかもしれませんが、もし本当に夏目漱石が生きた時代に誰かに使用したとして、伝わると思いますか?
もちろん、当時「愛している」と直接いうのが気恥ずかしい時代だとしても、難しいでしょうね!
一緒に月を見るということは、当時の未婚の男女が月の見える時間に2人きりで一緒に過ごす、といった背景や共通理解などがあったはず。
他の人には伝わらないけれど、その人に伝わる言葉というのは、その間に相互理解があったからです。それって実は愛情表現でも同じこと。
私たちは愛情表現というとパートナーになら口付けをして、肌を重ねて、愛の言葉を伝える。
子どもにならば褒めて抱きしめて、一緒に過ごして……ホームドラマで見たような、いわゆる社会的、一般的な愛情表現をそうイメージします。
しかし!あくまでこれは創造物であり、社会的に形成された人工的愛情表現!
相手の自尊心を折らないとか、人を侮辱しないとか、基本的人権にまつわる最低限の共通点というものはありますが、それを守れば愛情表現ってとても多様なものなんです。
社会でイメージされる「愛し愛される」を一旦置いておいて、自分たちの生活に基づいた愛情表現を考えましょう!
上記のようなイメージで縛られ、それを実践してもいいですが、習慣がないと難しいです。
相手を傷つけなければ、自分たちに合う形で愛情を伝え合いましょう。
もちろん共通理解で愛情表現を伝えているつもりでも、意外と勘違いされているなんてこともあるんです。
時間や信頼に基づいて相互理解は形成されますが、言葉足らずだときちんと伝わらず、逆に「傷つけられた」という思いだけが蓄積されるかも。
よくあるのは、「厳しくいうのは愛しているからだ」というもの。
でも、もともと子どもが「厳しくいうのは自分が嫌いだから」という認識を持っていたらどうでしょうか。
言われるたびに「嫌われている」「愛されていない」という思いをすることになります。
私は幼少期、今振り返るならば、「躾のために、社会に出た時のために」ということで少し過度な体罰を受けたりしました。
当時は痛みや辛さばかりが先立って、そんなふうに理解できるようになるのはもっと先ですし、時には理解できない人もいるでしょう。
私たちは自分で理解していることって改めて言葉にしないし、相手もきっとそう思っているだろう、という前提です。
いちいち定義を確かめたりせず、コミュニケーションは進んでいきます。
まどろっこしく感じるかもしれませんが、子どものうちは丁寧に伝えましょう。
躾やお説教にも同様のことが言えるので、子どもに合わせた表現で、子どもの自尊心を何よりも大切に。
愛されて育った人には、共通理解があることが特徴!
社会的愛情表現の強みは、全く見知らぬ人にでもそれに合わせれば愛情が伝わります。
しかし「子どもがそれをきちんと理解しているか」と聞かれたら?
メディアの発達によって私たちは直接経験していないことでも、経験したかのような近く経験を積むことが可能ですが、それはある程度の理解力と表現力が伴います。
子ども時代はそれらを育てる大切な時期です。
だからあなただけが抱いている愛情表現を子どもに押し付けるのはNGですよ!
伝え方よりも、子どもがどう受け止めたかをまず確かめて、そこから理解を深めていきましょう!
あなたと私は同じ認識に立てている?
肯定的な言葉を述べた「つもり」になった時は特に、相手もそれをきちんと受け止めてくれただろう、と思いがちではありませんか?
だから相手が特に際立った反応を見せない時、自分の言葉は自分が意図した通りに受け止められたと思いがちです。お説教もまた然り。
でも、意外とその解釈が異なっていることって多いんです。
子どもが相手ならば、「どう思った?」「どう感じた?」と聞いてみましょう。
娘が小さいころ、お金を勝手に持ち出したことがありました。
それについて叱った後、「私の話を聞いてどう思った?」と聞いてみると「嫌われたと思う」と返ってきたことが強烈でした。
私はその時、反省したかどうかという意図で聞いていたので、そう答えられた時は「こいつ話聞いていたか?」と怒りがふつふつ再び込み上げたものでしたが……
娘にとって叱られることは、愛されることと真逆の意味を持つものだったと気付かされました。
子どもは表層的な言動に惑わされ、本質を的確に捉えられないのは、当たり前のことなんですけどね。怒っている時は特にそれが頭から抜け落ちてしまうというのは、いつも反省しています。
「あなたがしたことは悪いことだけど、あなたのことは嫌いになっていないよ。同じことをしないでね」と付け加えるだけで、娘はきっと安心できたんでしょう。
子どもにどう思ったか聞いた時、あなたも「子どもはこういうことを言われると嬉しいのか」ということを理解できますよね。
どんな表現をしたら子どもはどう思うか、できるだけ相互確認をしておくと、表現の共通理解の範囲が拡大していきます!
観察していけば子どもが考えていることなんてわかる、と思いがちかもしれません。
ですが本当にどう思っているかなんて、子どもが証明するまではわからないシュレリンガーの猫のようなものですね。
抱き締める愛情表現だって、信頼関係が前提です!
今までホームドラマでイメージしてきたことは人工物だといってきましたが、抱きしめ合うことは、本能に刻まれたものだということで擁護しておきましょう。
もちろん注意点もあります!
人が温もりを感じる時、幸せホルモンやらさまざまな身体メカニズムのもと(細かいことは省略しますが)愛情を実感できます。これは科学的にも証明されています。
ですから、余り親交がないけれど、親戚から抱きしめられた、ハグされた、頬にキスされた、ということは幼少期よくあることかも?
しかし温もり=安心という方程式は、見知らぬ人には当てはまりません。むしろ警戒です。
子どもは他者との接触に無頓着で、パーソナルスペースが広いように見えるかもしれませんが、拒否することを得意としていないからかもしれません。
海外ではNO(拒否), RUN(逃げる), TELL(相談する)という三つの要素を子どものうちから叩き込まれます。
これらを教えることで、嫌なことは嫌と拒否をできるようになります。元々は性被害者などにならない自衛のためです。
単純に抱き締めることが愛情表現だと認識し、拒否することで相手を傷つけてしまうかもと遠慮していると……最悪、痴漢やセクハラのような身体接触も「好意」として片付けてしまう恐れがあります。
これは、未成年の性加害者の認知の歪みにもよくみられることです。
信頼関係があったとしても、発達に応じてその感情は変化します。
「あなたのことが大好きだから抱きしめたいのだけれど」と一言おいてあげましょう。もし嫌だと拒否されても、成長だと受け入れて。
我が家の弟くんはハグが大好きな子でしたが、人前では嫌だ!から始まり、徐々に家族でも距離が生まれました。
初めは少し寂しく思いましたが、いつまでも親子がベタベタしているのもダメですからね。
温もりに固執せず、多様な方法で愛情を伝えていけるよう親も子どもも、日々相手がどう受け止めているか確認し合う必要があります。
まずは相手がどう感じるか、これを怠れば基本的信頼関係なんて夢のまた夢ですよ!
まとめ
本稿のまとめ以下の通りです↓
- 愛されて育った人は、自分が愛されたことを理解している!
- 愛情表現は人それぞれ、でも相手の自己肯定感や自尊心を傷つけず。
- 社会的愛情表現よりも、自分たちができる愛情表現で。
- 自分の表現を相手がどう受けたとめた確認!
- 信頼関係や発達に応じて、身体的温もりで伝える愛情には要注意!
自分は愛しているから伝わっているだろう、そう思って破局するカップルは後が絶えません。これを「血のつながりもない赤の他人だから」と納得される方も少なくありません。
けれどそれが子どもになると、「自分の子どもだから」と無意識的に理解しているだろうという前提に立ってしまいがちです。
子どもだって、一個体であり、自我がある。
そして、やっぱり未熟なのです。時間をかけ、言葉を重ね、信頼を気づき、愛情を深めていきましょう。
「自分は愛されて育ったんだ!」と胸を張っていってくれるのは、きっとそう遠くないことだと思います。